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 と、そこまで話を聞いて僕は君に答える。今から十年ほど未来のことだから、答えるだろうと書いた方がいいのかもしれない。
 新しい駅の機能的なベンチは二本のパイプ状で、僕はそこにほとんど尻を置くだけの姿勢を保ったまま小一時間、ごついヘッドフォンの両サイドから低く、時にかすれながら響いてくる君の呼びかけを聞いたのだ。
「それは灰じゃない」
 と僕はつぶやくだろう。
「リンゴの花びらだ」
 と付け加えるのではないか。なぜかと言えば、海岸沿いのその小さな無人駅のホームの端、僕のいる屋根のない場所には若いリンゴの樹が覆いかぶさって新緑の葉を柔らかく光らせているからだ。樹は病害を避けるためにだろう、幹や枝をベージュの麻布のようなものでぐるぐる巻きにされている。
 もう五月も半ばで、白い五弁の花はすっかり散ってしまっていた。けれど、君が君の話を始めた頃、まさにその花を浴びるようにして君はここに立ち尽くしたのだ。もちろん今からずっと先のことだから、僕はまた立つだろうと言うべきだろうか。いや、もういい。
 君はスニーカーをはいている。兄とおそろいで買った、あの黒地に銀色の線が入った細目のスニーカー。それ一足で君は春の野山を歩いてきたのだ。何日もかけて。無我夢中で。カーキ色のリュックをかついで。日の出を幾つも経て。
 そしてついに君は電車に乗ることを決めた。小山の連なりを抜けてゆく晴れた午後、単線の一直線のレールが海と陸とを分けるように光っているのを見て。降りていこう、人に会いに。君はそう思ったのではないか。
 もともと君は小さな都市の、主にイタリアから輸入した自転車を売る店で働いていた。経営者は三つ上の兄で、兄もまた叔父からその店を譲り受けたのだった。元は電器店の主であったこの叔父は変わった人で、大きな背を丸めてラジオを聴くのを仕事中の習慣としていた。店内だけならまだしも、顧客の家を回って修理などする時も片耳にイヤホンを入れたままだった。そして叔父は数年に一度、ラジオから“天啓”を受けた。
 おい、貴弘。
 叔父は子供がいなかったから、話を聞くのはたいてい貴弘、つまり君の兄だった。
 俺は今から洗礼を受ける。今ラジオのゲストが話していた神のことを聞いて、俺はずっとそうしたかったんだとわかったんだよ。ここから一番近くの教会はナザレか、それとも三輪町の教会か? そうして、叔父は宗派のことなどには無頓着なまま、ともかくキリスト教徒になった。
 また、こんなことを言い出したこともある。
 俺は今からコロンビアの熱帯雨林に行ってくるよ。世界で一番自然が美しいそうだ。今、ゲストのオオバサエコさんがそう言っていたのを聞いて居ても立っていられなくなった。
 叔父は店を兄にまかせ、その日のうちに荷物をまとめてどこかへ飛び出していくと、何年も音信不通で帰らなかった。本当にコロンビアに向かったのか、ただオオバサエコという人に会いに行っただけなのかはわからなかった。
 ある日ひょっこり戻ってきた叔父は黒々と日焼けし、髭も伸び放題で背が縮んだように見えたし、ひどく寡黙になっていた。どのような経験が彼をそうしたのか、結局君が知ることは出来なかった。叔父は兄の下で黙々と働いた。だが、ラジオを聞くのはやめなかった。
 君と兄は、早くに両親をなくしていた。叔父は唯一の親戚だった。回りにはそういう人間が珍しくなかった。
 彼に引き取られ、それまで走り回っていた田園風景が夢だったのではないかと思うような小都市で育っていく過程で、君は叔父の気ままさを憎んだ。兄もそうだったろうと思う。だからといって君たちは逆らうことも出来なかった。そこでしか生きられないと思ったのだ。
 最初は高校生だった君も兄も十分大人になった。けれど、君たちは叔父に、叔父の生きる場所に縛りつけられていた。
 にもかかわらず、その叔父をなくした時、君たちは病院からとぼとぼと歩いて帰り、ラジオのスイッチをつけたのだった。叔父の闘病が始まってから、店のレジの脇に放っておかれた銀色の簡素なラジオ。売り物の中でも最も精彩を欠く小型の機器のスイッチを。周波数は叔父が設定したままだった。君たちはボリュームを最大にするだけでよかった。
 自転車の話をゲストがしていた。特にイタリアの自転車の構造の優れた点について、声が裏返り気味の中年男性がとうとうと述べたてていた。それで君たちはラジオを切り、即座に電器屋をたたんで、輸入した自転車を売ることに決めたのだった。
 君は実際、イタリアにも行った。幾つかのメーカーを訪ねて試乗もしたし、レースも観た。自転車がどのような内装の店で売られているといいか、君はたくさんの写真を撮って兄に送った。その度、兄からは返信が来た。日本で手に入らない器具や自転車のアクセサリー、またインテリアに使えそうな品物を兄はいくつも思いつき、君に買ってくるよう伝えたものだ。
 少しずつ店は評判になった。雑誌に出たりブログに書かれたりしたし、ラジオにはよく引っ張り出された。それは一度、ネット放送に出演して面白おかしく叔父の話をし、自分たちもまた同じように突然この道を選んだのだと話したからだった。ラジオがそんな風に人間を突き動かすとは、送り手も想像していなかったのだった。
 決して裕福ではないが、楽しく生きているとぼんやり思っていたある冬の夜、フランスから届いた梱包の二つ目を君が解いていると、兄が店の奥からゆっくり歩いてきた。
 おい、聡平。
 その声の質で何が起こったか、わかった。兄は叔父そっくりだった。
 店の運転資金はそこそこある。お前に全部渡して、俺は出て行く。死滅しかけたサンゴを植えに南の島に行くんだ。時間がかかる活動だ。
 身勝手な話だった。けれど、君は受け入れた。“天啓”という軽い狂気のような移り気は、自分にはとどめようがないと君は繰り返し訓練されてきた。君はたった二人しかいない身内の両方に翻弄され、孤独を強いられた。一人で店をやっていくように言われた。会社の登記上はまだ兄が社長だが、誰か信頼できる人間でも入れて兄の名前を外し、聡平が社長になればいい、と君の兄は冷静な顔でアドバイスさえした。信頼できる唯一の人間が。
 君は毎日、一人で働いた。兄のかわりに話しかけてくれるなじみの客や近所の知人がいた。君は油で汚れた手をタオルでふき、海外の取引先にメールを出し、荷をほどき、ゴムチューブに空気を入れ、代金支払いを銀行サイトで確認し、コーヒーを絶やさずに入れておいて長居をしてくれる客たちと飲んだ。
 時をやり過ごしていれば、それで十分だ。半年ほどして君はそう思った。自分は望み過ぎずに生きていけばいい。このままでいいんだ、と。
 それなのに君は春の朝ぼらけの中、店の裏手の倉庫の前で、会社の書類も通帳もイタリアに出入国した日付がスタンプされたパスポートも、君と君の兄と叔父が写っている写真も、両親を失って引っ越してきてからの日記もすべて燃やしてしまった。真っ白な灰にしてしまった。たくさんのものをなくしてきたその上に、自分から灰にしてなくした。
 ひとつかみの白い灰をアーミーパンツのポケットに入れて、君は黒地に銀の線が入った細目のスニーカーをはき(ただその時、君自身はそれが兄とおそろいであることを忘れていたのだけれど)、薄手のダウンジャケットをはおって。リュックにはあるだけのペットボトルの水と食料を入れた。
 がむしゃらに歩いていこう、と思ったのだった。それも人間が造り、壊され、また造り直した道路をではない。山を越え、森の中を行き、川を下って。少しずつ灰をまいて。まき散らして。小枝で左目を打って涙が止まらず、斜面で転倒して腰を打ち、道に迷って幾度も同じ場所に出、高熱にうなされて眠り込み、開け放っていたリュックの中を蛇にのぞかれ、野犬化した犬の群れに長くつきまとわれ、君はがむしゃらに移動した。
 何日も何日も君は歩き、小山の連なりを抜けてゆくあたりで、単線のレールが海と陸とを分けるように光るのを見た。そして、気付いたのだった。自分がなぜ歩き出したのか。なぜ大切なものを焼いたのか。
 ラジオだった。持っているものに火をかけ、その身ひとつで飛び出すがいい。そこに求めるものが待っている。ラジオがそう言ったのだ。占いのコーナーだったのか、僧侶がゲストだったか、哲学者の書物の紹介だったかは君に関係のないことだった。ともかく君は憎んでいたラジオを、次第にこっそりと聞くようになっていた。叔父のように。兄のように。
 そして“天啓”が来た。いや、来たと思いたかっただけかもしれない。自分にだけ来ないのは不公平だと。ともかく、君は思いつく限りの自分が生きてきた証拠を燃やした。それから、失った両親と共に暮らしていた故郷、入ってはいけないと言われた場所に自分の足で近づこうと思った。それをずっと願ってきたのだとわかった。
 気付きのあと、君は降りていこうと思った。人に会いに。
 ただ、それは十年ほど先のことだ。
 二十年かもしれない。
 百年。
 あるいは二万四千年後だろうか。
 君は無人駅まで来てホームに立ち尽くし、そこでラジオ放送を真似る。君は君の話を始める。
 立ち上がろう、立ち上がることができるなら。続けよう、続けることができるなら。今まで綴られてきたあまたの物語は、まだ焼かれてはいなかったのだ。本当は、と。
 僕は同じ場所にいて、ごついヘッドフォンで君のその未来からの声を聞き終えたところだ。ジャックは簡素な銀色のラジオにつながっている。

(S.I. / 2011.3.30)


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