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 立ち上がろう、立ちあがることができるなら。続けよう、続けることができるなら。今まで綴られてきたあまたの物語は、まだ焼かれてはいなかったのだ。本当は。みず色の紙に書留められた、語り紡がれたもうひとつの世界のなかに、もうひと群れのわれわれが棲んでいた。彼女と彼とが、彼女らと彼らとが、この日々のなかにいるわれわれを浄めたのだった。そう信じられた。長い長い手紙が君から届いたから、文字のおもてはしろくはてなくひかって、その白熱ですべての物語を焼こう。焼く、焼いている、焼いた、焼け果てた。煙が上がる、視界を潰すにがい煙が燻る、それは膨らんでゆくりなく空を覆う、その煙をそれでも追う。眼差しの煮たてられた黄金で追う、追う、追い続ける。そして雪もろともに黒く焦げてかぐろい影をつくるあの林檎の巨樹の根もとに、その灰を撒こう。炭化された、炭化された、両手で。

 砕かれやすい日々、しぶく塩はゆい体液の滴り、嗄れる喉声の積み重なりくぐもりに、みな巣食われていた。巣食われながら 戦慄 わなな いて。慄えながら他愛もなくよろこんで。錆びついた昂揚、のあとの朽ちてあまい悔恨に むせ んでいた。この世界のなかで。有限のなかで。しあわせなことだ、われわれの生きるこの世が限りあるということは。生を変えるには数百キロメートルも移動すれば足りる。動かずとも数年あれば。移ろはしさのつきせぬ楽しみ、その安逸な離脱の幻想のなかで、ひとは連綿とさわがしい言葉を紡ぎ続けることもできる。内心傷つくことも傷つけることも極度におそれて、生殺しの罪悪感がにがにがと口腔を粘つかせる諍いすら はしゃ ぎ立てて。醒めた客観を装ったくろぐろとした妬心、をも見抜くのは黄色く膿み淀んだ悪意で。幾たびもこころ折れて、しかしこの世しか無くて。喋々しろ喋々しろ、叫びにもなり切れず一様に平坦にうす灰いろに宏がる耳 いるその原雑音で、自らこそを聾せよ。望みのままに。それはとてもたのしいことだ。とても。だが不意に耳はひらく、澄ませられている。そして月が ちぢ まる。無残な片笑みのように夜空に切り込みをいれて、細い月がひかる。つめたい、どこまでも玲瓏と昏い すが やかな夜の、無慈悲なまでに音のない気圏の底で、その底の底で、ふと出口がないことを知る。出口はない。それは生を限りなくする。無限の生は閉じられている。完璧に。脱出はない。どこからどこへ遷ろうと生を変えられはしなくなる。此方から彼方へ、と。しかし出口がない世界に此方はなく彼方もない。どこに向かおうと行ったことにならず、留まりも足元から崩れ去る。彼方に着いて安堵する者も、此方に留まる不抜の者も、大地の堅固をうちくだかれている。不意にくずおれて 膝行 いざ つくば うおのれの様を眺めている。ことに気づかないでいる、気づかないふりをしている。揺るがされた大地に足踏むひとつの場処がないなら、出発点も終着点もない。ゆえにただ、ひたすらに彷徨を強いられている。出発がない、終着がない、前進がない、進んでいるのか退いているのかわからない。何も始められない、それはすでに繰り返されているから。何も終りにならない、それはすでに見た光景だから。膨大な言葉たちは繰り言に雪崩れ、祈りすらいらだたしい蒸し返しに変わる。と、すれば。

 滑稽だと君は笑うだろう。このことを、まさに君から学んだのだから。誰かにとっては君はもう死んでいる。誰かにとっては、君は生を分かち合う日々の、たがいに汗沁みした肌を寄せ歯を立てあう同志であり糧でもある、なまなましい現存だ。気疎くなるほどに生きてうごいて。同じだ。誰にとっても。あのひと時の君がいまは幻のようであるということは。君からの手紙よりもまぶしく痛がゆく白びかる おもて の、一枚いちまいの上をするすると ほど ける糸のようにうねり時にむごたらしい凝滞をなして澱む文字のつらなりでくろく汚していくこの時には。ひとりふかぶかと沈黙のなかに溺れて、誰もいない誰も知覚しない切り離されて物憂く軽快な孤独のなかで文字を追い続けて、ふとどれくらいの時が立ったか、訝しみが急激な鼓動の早まりとなって身を撓ませるあの時ですら。思い出せない、思い出せない、慕わしい君の姿が。君は膿みやすい。君は汲みやすい。君は巣食われやすい。君は割れやすい。君の きよ さは、君の度し難い悪徳と吊り合っている。不公平で、のぼせあがっていて、傲慢で、愚痴っぽく、自己嫌悪がつよくて潔癖なくせに、夜遊びがすきでこそばゆく仄かにうしろめたい楽しみには無警戒で、実にだらしがない。しかもそれら自らの悪しき箇所を並べ立てて人を攻撃する。幾たびもそれを聞いた。聞かされた。ふかぶかとした憎悪が君の瞳のきらやかしくしていた。瞳孔の底に昏く貯まるその歪んだひかりを愛した。君に捨て置かれたこの身ひとつを、しかし他人ごとのように冷然と見下して ざま なくうつけていた。どうして君に縋ることができただろう、それをざわざわと肌を粟立たせるほどに乞い求めつつしかし縋られることだけはいつでもどこまでも侮蔑し唾棄することに決めていた、決めざるを得なかった君に。深くふかく傷ついていることだけは認めたくはなかったのだ、君は。それが誰もを何もかもをむごく痛めつけていることを知らなかった。知らないふりをしていた。

 何が知れよう。何を知ることができるだろう。こんなにも何も隠すことができないわれわれなのに、こんなにも何も開くことができないわれわれなのに。この無限の生のなかで、他に生きる術もないというのに。無限の生、と。しかし地点から地点へと向かいうる有限の世界と、ただひたすらなよろぼい彷徨いだけが責めさいなむ無限の世界とを分かつ線はかすれて薄い。それはうすい、それはあわい。この夜とあの夜が違うようにしか違わず、同じようには同じだ。いや、夜にも無限の夜があり、有限の夜がある。二つの世界はそれぞれ夜を孕んでいる。そしてまた、今日も二つの夜もおさない双子のように似ている、いやそれ以上に。どちらがどちらを忍び、どちらがどちらを やつ しているのか、一体にどちらが真の夜だったのかも誰にも判らないままに、そう誰にも知られないままに、それは消え果てる。消え果てていた。今日も。さむい春の夜はつれない。あの林檎の木が木々となり林となるに十分な時を隔てて、魚眼のように巨大にまるくほの明るいうす墨色の夜空がどこかまばゆく、かすかにふくらむ潮の香を連れてきていた。木蓮の花が無惨に、咲き誇る前にすでに褐色に褪せしおれていた。この花がまだ咲かないころに、君はその樹を見上げてながく見つめていた。

 そして灰を掬う。てのひら一杯にその灰を掬いなおす。燃やしても燃やしても燃やしきれないあの、憎むものに憎むほど巣食われていった君と二人きりで書いたあの物語の灰を。その灰をまた掬う、掬う。この掬いが書くことなら、何を書けばいいのか。こうして、また繰り返し何を書いているのか。もはや何も物語れないとしたら、一体。痩せ細る、 せて罅割れて 瘡蓋 かさぶた のようになる、ともすると悪血が滲んで見栄えのしない凡々たる嘆き節に似通う、それでも。たまさかの救いのために必要な語のしばし宙に舞うつらなりならそれでもいい、それでも構わない。しかし君は救いなど拒絶する。筈だ、救われることなどは。そのためだったのか、あの自身すらどうすることもできない残忍さは、自分でも気付けないほどの冷酷さは。尊大なまでにいたずらな明眸皓歯を余所に、うつろな無感動を、洞のようにくらぐらとした無関心を、 しこ りきった片意地のようにふっとその立ち姿に溜めていた。微量の不透明な厚ぼったさを秘めて、それでも君の姿はあの時のままで、いつまでもあの時のままで。その苛々した、浅薄なだけに切実な、執拗な、益体もないまでに細部に立ち入る あげつら いと、習い性と成り果てていた反射的な口答えが、しんしんとその姿を身も心もなにもかもをもろともに蝕んでいたのも知れずにいた。のかも、知れない。

 また灰を掬う。あれからもまた撒いた灰を、いずれにせよ吸い込まれて地とひとつになりゆくこと叶わず、死者にも生者にもひとしなみに降り積もり続ける雪のようにつめたく優しい灰を、いたい灰を。潮に濡れて汚泥のように成り果ててもなお、多くの不妊を、多くの夭折を、こんなにも、こんなにも多くの、焼かれた名たちを身に包んで。それでもなお、新たに乾ききって脆く砕かれ、しろい水煙のように灰はたなびいた。果てまで、あの見遙かす果てにまで。

 また掬う。すべてが無意味かもしれなくても、無駄かもしれなくても、何の報いもなくても。他にどう仕様もないから。三百回の無言の白昼と真夜中を数えて、数えやめてから幾度、昨日と今日の今日と明日との境がきりなく掠れ果てていくのも知れずにいた。赤々と燠が目に沁む、見渡すと満点の夜空の青ざめて痛い球体の下に、真下に、平らにひたすらにひらたく、遙かに昏く沈む大地の闇に点々と灯る無数の燠の光の、その真中に立ち尽くしている。燠火のひとつひとつごとが鬼火のように、僅かに地から浮いているようにも見え。うつらとして鈍く揺り起こされ目が覚めても、またその燠のなかにいる。揺り起こした手も見えず。正気に返っても、まだそこにいる。灰を掬い続けている。あの時に君は死んだ、ではこの目の前にいる君は誰だ。こんなにも君は多くの名を持ち、そう焼かれた名とおなじ数の名を持ち、無数の誰かにとっての君は無数だ。こうして正気に返ったのだ。何度でも正気にかえりつづける。ほら、こうして、君の前にまた立って。立ち尽くして。

 無駄なのか、と。期待するな。君自身の答え以外の答えを。君がそこにいるのなら、君がまだ返信を受け取るつもりがあるのなら、そして二重の夜のたゆたいの狭間で苦しんでいるのなら、思い出してほしい。いつかいつの日にかあまたの人々と斉唱したあの歌を、あの声を。再び、そしてまた繰り返し、もう一度。

 続けろみんな。止めるなみんな。日の出まで。そう日の出まで。

(A.S. / 2011.3.27)

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