『夜戦と永遠』第一〇節訂正。
Written by A.Sasaki on 3 月 12th, 2009『夜戦と永遠』第一〇節に訂正があります。迂闊な見落としと誤解のために、第一〇節の叙述がラカンの意図に反するものになってしまっています。
例えば、第一〇節の叙述の通りならば、丁半ゲームの結果が +----++・・・だった場合、21122と変換され、次にδαβγと変換とされてしまいこれは論旨に反する。
また+------・・・ならば21111となりδαααと変換され二つ落ちることになる。もっと端的に言えば、+++++++・・・ならば11111→ααααとなる、等々(しかしそもそもラカンはαの四連続は可能だがβの四連続は可能ではないとはっきり『エクリ』のなかで明言している!)。
そこで、ラカンの『エクリ』に即して、第一〇節の論旨を次のように訂正します。以下、一から論じているとたいへんに長くなりますので、やむを得ず『夜戦と永遠』第一〇節をお読みになっていることを前提として書かせていただきます。ぜひ照らし合わせてお読み下さい。
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『夜戦と永遠』第一〇節にそうあるように「連続する文字の四つの項のうちに必ずひとつ抜け落ちる文字がある」のでは「なく」、「一連の項のなかで、第一項と第四項を決定すれば、中間の二項から可能性の排除されている文字が必ずひとつある。また同じ中間の二項のなかで、最初の中間項に入る可能性が排除されている文字が二つあり、次の中間項に入る可能性が排除されている文字も二つある」(Lacan, E, 49.)。
第一項と第四項の組み合わせが(α・・α)のときを考えてみよう。ラカンいわく、「αまたはδからは、αまたはβ以外得ることができず、βまたはγからは、γまたはδ以外得ることができない」(Lacan, E, 49.)。αは「1-1」「3-3」「1-3」「3-1」なのだから(実際は1は{+++}{---}、3は{+-+}{-+-}であるから「1-3」「3-1」は存在しない。Lacan, E, 48.の「網状図(レゾー)I-3」を参照せよ)、中間項のひとつである第二項はα自体か「1-2」「3-2」であるβしか来ない。つまりここでは「2-2」であるγと「2-1」「2-3」であるδは排除されている。つまり、(αα・α)と(αβ・α)がありうることになる。さて、(αα・α)の場合、第三時点はαしかありえない。つまり(αααα)しかありえない。(ααααは可能、とラカン自信も明言している。Lacan, E, 51.)。(αβ・α)の場合、くりかえしになるがβは「1-2」「3-2」でありαは「1-1」「3-3」「1-3」「3-1」であるから「2-2」であるγは来ることができず、「2-1」「2-3」であるδしか来ない。つまり(αβδα)しかありえない。第一項がα、第四項がαならば、第二項はαかβしかありえず、第三項はαかδしかありえない。つまり、「中間の二項から可能性の排除されている文字」はγであり、「最初の中間項」である第二項から排除されているのはγとδの二つの文字であり、「次の中間項」である第三項から排除されているのはβとγの二つの文字である。
同じようにたとえば(δ・・γ)ならば第二時点はαかβ(γとδが落ちている)、第三時点はβかγしかない(αとδが落ちている)。そして中間の二項からは共通して「δ」が落ちている。
同じようにたとえば(δ・・α)ならば第二時点はαかβ(γとδが落ちている)、第三時点はαかδしかない(βとγが落ちている)。そして中間の二項からは共通して「γ」が落ちている。等々、これはあらゆるパターンに当てはまる。
以上の説明で満足できない向きのために、以下証明を行う。あらためてラカンの命題を見てみよう。
「一連の項のなかで、第一項と第四項を決定すれば、中間の二項から可能性の排除されている文字が必ずひとつある。また同じ中間の二項のなかで、最初の中間項に入る可能性が排除されている文字が二つあり、次の中間項に入る可能性が排除されている文字も二つある。」(Lacan, E, 49.)。この命題に証明を与える。
まずこの命題を分割する。第一項と第四項をあらかじめ決定した上で、
「中間の二項から可能性の排除されている文字が必ずひとつある。」を命題Aとする。
「また同じ中間の二項のなかで、最初の中間項に入る可能性が排除されている文字が二つあり、次の中間項に入る可能性が排除されている文字も二つある」を命題Bとする。
命題Bは、さらに二つに分割される。
「最初の中間項に入る可能性が排除されている文字が二つある」、すなわち、
「第二項に入る可能性が排除されている文字が二つある」。これを「命題B前半」と呼ぶ。
「次の中間項に入る可能性が排除されている文字も二つある」、すなわち、
「第三項に入る可能性が排除されている文字が二つある」。これを「命題B後半」と呼ぶ。
まず命題Bから証明する。
「αまたはδからは、αまたはβ以外得ることができず、βまたはγからは、γまたはδ以外得ることはできない」(Lacan, E, 49.)。これは、言いかえれば、「αの次にはαまたはβが続き、δの次にはαまたはβが、βの次にはγまたはδが、γの次にはγまたはδが続く」ということである。図示すれば次のようになる。
<図1>
α→α、β
δ→α、β
β→γ、δ
γ→γ、δ (「αまたはβ」=「α、β」と表記)
(ある項)→(次の項)
これは第一項を決めたときの、第二項の可能性と捉えることができる。つまり第一項がαまたはδのとき、第二項の可能性はαまたはβであり、第一項がβまたはγのとき、第二項の可能性はγまたはδである。ゆえに、「どの文字が第一項でも、第二項に入る可能性がある文字が二つ排除されている」(命題B前半)ことが理解できる。
また、図1から理解できることは、「αまたはδからαは生じ、αまたはδからβは生じ、βまたはγからγは生じ、βまたはγからδが生じる」ということである。図示すれば以下のようになる。
<図2>
α、δ→α
α、δ→β
β、γ→γ
β、γ→δ
(その前の項)→(ある項)
これは第四項が決定されたときの第三項の可能性と考えることができる。つまり第四項がαまたはβのとき、第三項の可能性はαまたはδであり、第四項がγまたはδのとき、第三項の可能性はβまたはγである。
どの文字が第四項でも、第三項に入る可能性のある文字は二つであることがわかる。
しかし、これだけでは「どの文字が第四項でも、第三項に入る可能性がある文字が二つ排除されている」を示せたとは言えない。なぜなら、第三項は、第二項からの規制も受けるからだ。そのことによって、「三項目に入る可能性がある文字が三つ(あるいは四つ)排除されている」可能性がありはすまいか。以下、これを検討する。
<図1>を再度提示する。見てみよう。
<図1>
α→α、β
δ→α、β
β→γ、δ
γ→γ、δ
(ある項)→(次の項)
今の場合、(ある項)は第二項、(次の項)は第三項となる。
第二項が「αまたはβ」のとき、第三項に入る可能性のある文字は四文字全てだということが理解できる。
第二項が「γまたはδ」のときも、同様に第三項に入る可能性のある文字は四文字全てであることが理解できる。
ということは、第三項に入る文字は、実質第二項には規制されず、第四項のみに規制されることがわかる。
第四項による規制は<図2>で示した通りである。よって「どの文字が第四項でも、第三項に入る可能性がある文字が二つ排除されている」(命題B後半)が示された。と同時に、「第三項には可能性のある二文字どちらとも入ることができる」ことが理解できる。
次いで命題A「中間の二項から可能性の排除されている文字が必ずひとつある」を論証する。
1)第二項の可能性が「αまたはβ」の場合。
第三項に入る文字は、第二項によっては規制されないのであるから、
第三項の可能性は図2から、(ⅰ)「αまたはδ」、あるいは (ⅱ)「βまたはγ」となる。
(ⅰ)の場合、中間の二項から文字γの可能性が排除されている。
(ⅱ)の場合、中間の二項から文字δの可能性が排除されている。
2)第二項の可能性が「γまたはδ」の場合。、
同じく図2から第三項の可能性は、(ⅲ)「αまたはδ」、あるいは (ⅳ)「βまたはγ」となる。
(ⅲ)の場合、中間の二項から文字βの可能性が排除されている。
(ⅳ)の場合、中間の二項から文字αの可能性が排除されている。
以上、命題A「中間の二項から可能性の排除されている文字が必ずひとつある」は論証された。
ゆえに、ラカンの命題「一連の項のなかで、第一項と第四項を決定すれば、中間の二項から可能性の排除されている文字が必ずひとつある。また同じ中間の二項のなかで、最初の中間項に入る可能性が排除されている文字が二つあり、次の中間項に入る可能性が排除されている文字も二つある」(Lacan, E, 49.)は証明された。
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さて、以上の訂正を施しても、単なる丁半ゲームの偶然性がある種の必然性をまとっていく瞬間を、つまり「現実界からひとつの象徴的決定が独立してくる」(Lacan, E, 51.)瞬間こそを、ラカンはここでつかまえようとしている、という『夜戦と永遠』の当該部分の結論には影響はないと思われます。興味のあるかたは、『夜戦と永遠』第一〇節を『エクリ』の引用箇所およびこのエントリと照合してみて下さい。
本エントリは、教養学部理科一類(理学部進学課程)にて物理学を志してのち、特に「転向」などという大げさな葛藤もなくして飄々と文学部英文学科に転じたという二三歳の東京大学に在籍する学部生・宮内裕平氏から、二日前にメールで鋭くまた詳細なご指摘を頂戴し共に議論することによって書かれました。以上の叙述の後半にあたる証明部分の骨子は、ほぼそのまま彼の手になるものです。一二歳も若い、しかも存じ上げないかたからこうした生産的なご批判を受け、議論を通じて論旨を磨き抜くことができることは望外の喜びです。興奮と高揚を覚えた楽しい二日間でした。
それにしても工学部や理学部を(しかも大学院を)出ている複数の知人の査読でも見逃されてきた迂闊なミスを一読してあざやかに指摘してくださった宮内さんの論理性と集中力には痛快さすら覚えますし、私のようなものの本をそこまで丁寧に読んで下さったのかと心が揺さぶられる思いです。実際、ラカン自身の『エクリ』の当該部分のどこか秘教めいた「図式」よりも宮内さんの明快な証明のほうがはるかに読んで益するところがあるのではないでしょうか。この場をお借りして宮内さんに深い感謝と心からの尊敬の意を表明したいです。ありがとうございました!
こうした生産的かつ正当なご批判をいただくことは常に愉快なことであり、率直に言って大歓迎です。これをお読みの皆さん、その他にも間違いや質問がありましたら、いつでもメールで忌憚のないところをお聞かせ願えればと思います。力の及ぶかぎり対応したく思っておりますので、よろしく!