2015年01月

listening.


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Awful misology, A most terrible disease.

この直接行動の時代にあって何としても回避しなくてはならないこと、それこそ本稿でもすでに述べた、カントの言う「ミゾロギー」(学知憎悪)だ。カントは言った、「理性の使用に長けた者」こそが「ミゾロギー」に陥ると。大学、専門家、知識人の堕落の極みにあってなお、知と理性に代わるものはない。イタリアの詩人パゾリーニは、警官隊と対峙する学生を揶揄し、学生はブルジョワでありエリートであって、警官になる他なかった貧しいプロレタリアを支持すると言った。しかしこのようなアイロニーは過ちであり、ミゾロギーである。パゾリーニに皮肉を言うとすれば、本文にあるビスマルクの言葉「学生プロレタリア」を用いるのが適当だろう。現在、学生は貸与奨学金や不当な学費に苦しみ、アルバイトという非正規労働の恰好の供給者となっている。学生も労働者(プロレタリア)も同じく、つまり「われわれ」は同じく、ひとしなみに新自由主義的な「収奪」の対象である。われわれは「学生プロレタリア」である。さて、学生プロレタリア、すなわち労働者と学生と知識人と藝術家と……等々のあいだの連帯を、あるいはストリートとサブカルチャー……等々のあいだの連帯を、妨害し分断しようとする者こそ「『知的でない』ことを売りにする悪しき知識人」であり、「知識人批判を売りにする知識人」である。彼らはミゾロギーに取り憑かれていて、そうである自分にすら気づけない。彼らは恣意的に分断と連帯を選びとったあと、それを後から知的に根拠づけることはできる。だが分断や連帯かを「判断する」ための知的な根拠づけを必要としない。ゆえにたやすくダブル・スタンダードに陥る。現に「上級学者」であるか、さもなければ「上級学者」に媚びへつらう。彼らのもたらすのは、党派争いと屈従と惨禍である。

(2月近刊、拙著『仝 selected lectures 2009-2014』(河出文庫)より)



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presents on target.


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